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日本で一番東にある古本屋〈道草書房〉のブログです。 本やそれにまつわる色々についてのよもやま話です。






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みちくさ(道草書房店主)

Author:みちくさ(道草書房店主)
専門分野は、ミステリ・文学、それと郷土(北海道/根室)関係をちょこっと。
日本の片隅で細々と商いをしている、古雑誌をこよなく愛するおっちゃんです。



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【店主の読書ノートその14】『謀略の伝記』(伊藤光彦著、中公新書刊)
謀略の伝記


愛読書というのだろうか。折にふれて読み返す本が何冊かある。
これもそのひとつ。
副題にあるとおり、西ドイツの政治家ヘルベルト・ヴェーナー(本書では“ウェーナー”と表記。)の半生を描いたものである。

ヴェーナーと云っても、だいたいの人にとってはピンと来ないかも知れない。
実際問題、ドイツ近現代史なんてのは、ナチス・ドイツ関連を除いて、この国じゃ関心が薄いからねェ。
けれども、人気がない=重要でない、ということではない。
むしろ、現代日本の政治情況を考えた場合、示唆に富むことの方が多い。


ヘルベルト・ヴェーナーの人生は、二つに分けられる。

ひとつは、
第一次世界大戦後のワイマル共和国時代から第二次世界大戦中のスターリン粛清時代までの
ドイツ共産党員幹部としての前半生。
もうひとつは、
スウェーデンでの獄中時代からドイツ社会民主党の重鎮としての後半生である。

このふたつ、表面的には断絶があるようにみえるが、本質的なところは一貫している、と私には思える。
労働者の手によるドイツ再建と統一。言葉にすれば陳腐だが、そういうものが彼の理想なのであろう。しかし、それを追究する手段たるや、そんなセンチメンタリズムとは相容れない非情なものであるのだが。

前半生の彼は、
共産主義者としてナチス支配下の祖国で社民党と共産党の統一戦線のために働き、
モスクワ亡命後はスターリンによる粛清の嵐に耐え抜いた闘士であった。
だが、
滞在先のスウェーデンでの逮捕・拘留中に党を除名される。
逮捕に至った経緯の真相は明らかではないが、党内抗争がその背後にはあったらしい。

モスクワが労働者の天国ではないこと。
彼の台頭を苦々しく思っている人間がおり、
疑心暗鬼や足の引っ張りあいが、
ドイツ共産党内に巣食っていること。

党からの除名処分だけではなく、
そうしたドロドロしたものが、
獄中の彼に変化をもたらし、
ヘルベルト・ヴェーナーは、「転向」する。

戦後、廃墟となった故郷ドイツで彼は、社民党(SPD)へ入党し、同党党首クルト・シューマッハーの側近として頭角を現す。そして、米ソ両大国間の思惑の中で分断され、それぞれの陣営に組み込まれつつあるドイツの統一の可能性を求め続けていく。

ただし、その思考や方法は、理想主義者や単純な楽観主義とはかけ離れた、政治的リアリズムのそれである。

当時、ドイツの保守派―政権与党であるキリスト教民主同盟は、西ドイツが強硬姿勢を貫き、米英仏がソ連に圧力をかければ、再統一ができるものと楽観視していた。

しかし、ヴェーナーの見立ては違う。

アメリカにとって西ドイツは、反共の防波堤であり、西側体制に強固に組み込まねばならない存在である。
対するソ連にとっての東ドイツも同じこと。
西にも東にもつかない中立国としてならともかく、西側陣営に加わった西ドイツに東をくれてやる義理はない。
ナチス・ドイツに痛めつけられたフランスに至っては、ドイツの再統一など論外。
そんなのは“悪夢”でしかない。

そうした状況下で、いかにしてドイツ統一がなせるか。

それが、戦後政治の中で彼の命題となる。
そして、その方策として東方政策が出てくるワケである。

西ドイツのNATO加盟。
マルクス主義と訣別し市民政党への転換を宣言した「ゴーデスベルク綱領」の採択。

そうした流れの中で社民党副党首となり、党を指導する立場となったヴェーナーは、壮大な謀略を描く。
それは、つまり、権力の獲得。
「キリスト教民主同盟からの政権奪取」である。

そのためにまず、
NATOとECへの加盟、国防軍の整備増強に対し同意をし、
政権与党と外交・国防問題で共通の基盤を形成する。

そして、
与党に対し裏で塩を送り、
大連立へのシンパを作り、
表では、世間へ大連立成立への雰囲気を醸成させる。

総選挙の結果、行き詰った与党キリスト教民主同盟は、ついに社会民主党との大連立を決意。ヴェーナーの思惑どおり、社民党は政権与党の座へとつく。

外相ブラントとともに全ドイツ問題担当相として内閣の一員となったヴェーナーは、
政府内の対東側政策を、強硬路線から現実路線―東ドイツの存在を認め、それと友好関係を築く―へと舵を切る。
そうやって政権内での東方政策を転換させ、逆にキリスト教民主同盟の対東側強硬路線を封印させたのである。

その後、
総選挙での結果を受けて党首であるヴィリー・ブラントは、自民党との小連立政権を選択。
ヴェーナーは、党院内総務(日本の政党で云えば、幹事長に相当)に就任。

ここに、ブラント・ヴェーナー・シュミットのトロイカ体制が確立することとなる。

同政権下でのデタント、東方との宥和政策は、国際社会情勢ともマッチし、ブラントはノーベル平和賞を受賞しさえする。
だが、野党となったキリスト教民主同盟は牙をむき出してSPDに襲いかかる。
SPDの連立相手である自民党を切り崩し、不信任案成立のメドをつけるのである。

そして、不信任案提出。

事前の票読みでは、過半数を獲得して政権交代が実現するはずであった。
それは、ブラント以下、社民党首脳部ですら覚悟していたことであった。
ひとりを除いて。

不信任案否決。

手練手管、己が持てる政治技術を使い尽くしてヴェーナーは政権を守った。
されど、その手段は、決してキレイなものばかりではなかった。

政府自体は、手を白くしていなければならない。
しかし、誰かが汚れ仕事をやらねばならない。
そういうことである。

ただ、そうやって守ったブラント政権を崩壊させたのも彼なのである。

ブラントの性質や限界を見てとったヴェーナーは、政権交代を考え始める。

そして、手を打つ。
あえて手を打たない、という手を打つ。

首相秘書ギュンター・ギョームが東ドイツのスパイであるとの報告を受けるものの、彼はそのまま様子見を決め込む。
その後事態が表面化するや否や、それ以外での女性スキャンダルの暴露も含めて、彼はブラントに引導を渡した。
そして、SPDのもうひとつのカード、ヘルムート・シュミットを首相の座につける。

ブラント政権辞職。
シュミット内閣成立。
首相交代。

こうして権謀術数の限りを尽くして守ったブラントを、
今度はあえて何もやらないことで、ヴェーナーは棄ててしまったのである。

以後も党首ブラント・院内総務ヴェーナー・首相シュミットのトロイカ体制は続き、70年代の西ドイツ政治の中心にあった。
だが、この三人、ブラント退陣の経緯をみても分かるように、決して仲は良くなかったと云う。
しかし、個人的な仲と、「SPDを西ドイツの政治の中心に置く」という命題とは、別次元の問題である。
それぞれが政治のプロとして、そのポジションに必要な判断と行動をとったことが、この連立政権を長く保てた理由なのであろう。

ひるがえって、今日の日本の政治である。

昨年、政権を担うこととなった民主党であるが、こちらもまた3人の指導的立場の政治家によるトロイカ体制であった。

日本の民主党の3人とドイツ社民党のそれとを比較すると、いろいろ見えてくるものがあったりするのだが、それはまた、別のはなし。